やりたいことをやるブログ。
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健全という言葉は胡散臭いと思う。
健全なる肉体に健全なる精神が宿るというけども、そりゃあ一面では合ってるかもしれないが、健全でない肉体の持ち主の可能性を初めから認めていない一面もある。
聞こえが良く、クリーンなイメージのある言葉ではあるけども、「正義」と同じく酷く寛容さに欠ける印象があります。
今何かポルノグラフィに関して規制をするような条例云々で話題になっておりますね。
私はきちんと調べたわけではないし、ネットでの情報のみをうのみにするのも危険だと思うと「反対」とも言えません。
まとめサイトや署名サイトなどが沢山ありますが、そのいくつかには公正さに欠けるような意見をさも当然のように書いているものがありました。
唾棄すべき「検閲」にもつながるような条例であるのは確かなのですが、規制される我々の側から、初めから批判すべき・攻撃すべき対象として事態を書く場合、そこには多かれ少なかれ事実の誤認を含むものになると考えます。
ましてや、署名を集め賛同を得るのが目的であるのですから、「意図的に」事実を捻じ曲げ、都合のいいように洗脳するようなこともなくはないと思います。(ある、と言っているわけではない。
メールを送ったり署名をすることは悪いことではないし、行動に起こすことは重要なことではありますが、自分で何も考えず、ただ一つのサイトのみを見て行動に起こすのは聊か浅慮ではないかと思うわけであります。
ネットの情報の多くには社会的な意味での「責任」が存在しません。
たとえどんなに良いことが書かれている啓蒙サイトであろうとも、自らを秘匿して情報を発信している以上、そこに書かれていることに対し、発信者は何ら社会的な責任を負っていないのです。
そしてそれは、意図的に誤った事実が混入していようとも、発信者に対し責任を問うことができないということでもあります。
条例云々に関する流れでそのような啓蒙サイトが出来ていることは良い流れなのでしょうが、無条件に信じることは危険です。
少なくとも複数のサイトを参考にしたうえで、あくまで書かれたものは発信者の「主観」であることを念頭に置いておくのが重要かと思います。
そして出来れば出版された物を参考にし、賛同者と批判者両者の意見を見ておけば、最低限社会に物申す下地ができたものと私は考えます。
信頼に足る情報は、ネット上にはあまり多くありません。
今回の件でいくつかの啓蒙サイトを見ましたが、ほとんどの情報に対してのソースが明示されていないのが多くありました。
出典がないということは、極端に言ってしまえばまったくのねつ造である可能性もあるということです。
出典がない以上、その主張には社会的にも信頼のおけるものではないということを覚えておく必要があります。
…まあ、そんなことは周知のことではあるとおもうのですが。
ただ、問題は小中生が見るかもしれないような同人サイトにも啓蒙の流れが広がっており、そのサイトにリンクされていた啓蒙サイトを見て子供が安易に判断しないかなあ、というところですね。
啓蒙サイトへのリンクをつなぐだけでその主張に賛同することを主張できますが、そのリンクを見て何かしら考えるかもしれない情報受信者のことも少しは考えて欲しいなあ…と思うような思わないような。
くれぐれも偏った主張のサイトを紹介するのはやめて欲しいなあ…とかなんとか。(いや、その偏りを理解したうえで紹介するのは結構なのですが
えー長くなったけども、ポルノ規制云々に関して書いてなかったのでまだ書く。
あくまで主観的で、何の根拠もない考えです。
まあ…どうなのでしょうね、ポルノ規制。
確かに今の時代余りにも情報が氾濫しているのは認めるところではありますが、それを取捨選択するのはあくまで当人であるべきだとは思います。
それができない子供をいかに「有害な」情報から守るのか、ということに関して、ここらへんの規制で一つの解決策として提示されているのでしょう。
しかし、その「有害な」情報ってのは本当に有害なんでしょうか。
常々思うのですが、暴力もグロもエロも、人間の根源的なもののように感じます。
これらのどれにしても、多くの人は目を潜め自分とは無関係であるかのようにふるまい、あるいは隠そうとしますが、これらを希求している人間は実際大量に存在しているのは事実です。(特にエロって人間に欠かせないしね…
無論、そのようなものを外面上は抑え込んでこそ理性的な人間とされています。
一見社会からは認められてはいないものですが、しかし風俗店や大量のポルノ雑誌が公にあることから考えても、皆それらと触れ合っている現実はあります。
そして子供が、ある年齢以上になるとそういったものを求めるようになるのも現実です。
エロ本を道端で拾ってコソコソ友達と見るような子供時代を過ごした人が多くいると思います。(え?私?ハハh
でも、何故か自分が子供の時は必死に求めたそれを、大人になったら否定したがったり隠したがったりする人が多くいます。
「子供の教育に悪い」からです。
それは、実際に私たちの教育に悪かったのでしょうか。
暴力的なモノに自然と憧れていて、とにかく親に反抗したくて、「やってはいけない」と言われたことに手を出したことは、我々にとって何も意味を与えなかったと?
また、「教育に悪い」といいますが、「何の」教育に悪いのでしょうか。
暴力的なことは何故悪いのでしょう。
私は、それを「国が施したい子供への教育に悪い」ととらえます。
人は生まれた国は関係なく、施される教育によってその国民になっていくものです。
「国」語教育や歴史教育により、子供たちは国民になっていきます。
子供に施す教育とは、即ち国がどのような人間を支配したいかによると思うのです。
暴力的なことは教育に悪いです。
なぜなら、将来的に暴力的な国民になるかもしれないからです。
暴力的な国民は非常に都合が悪いです。
なぜなら、国の治安が乱れ、国民をコントロールし難くなるからです。
勿論、これは私の勝手な考えで、全くの妄想かもしれません。
しかし、人間にとって暴力的なことや淫らな行為に耽ることが悪徳であると決めたのは誰ですか?
キリ○ト教は性欲や怠惰や裕福であることを悪徳とみなしています。
嘗て多くの国がこの宗教を国教とみなし国民に広げたのは、無論神の国を実現するためではあったかもしれませんが、それが国民を支配するのに都合がよかったからだとも私は思います。
実際、キリ○ト教の教義が法律のように民衆に広がっていた中世ヨーロッパの権力構造は、ほんの数パーセントの特権階級が民衆の富を吸い上げやすいように出来ていたものでした。
今規制されつつある暴力やグロ・エロは、国にとって都合が悪いものではないかと思うのです。
ポルノ表現の規制には親や女性から多くの賛同を得ることが出来るので、人気取りにも絶好かと思います。
しかしそれらは、国が施したい子供への教育には悪いかもしれませんが、我々が望んでいるような子供へ施したい教育と全く重なるものですか?
子供から牙を抜くことが重要で、自らが子をコントロールし易ければそれで良く、その後子供がどのように育とうとも問題ではないと?
本当に子供のことを考える、ということの意味は人にとってそれぞれで、得られる結論もまた人により違うものでしょうが、聞こえのいいその「健全な青少年の発達のために」という言葉が何を意味しているか、よく考えた方がいいと思います。
しかしですね、エロでグロで暴力的な表現が必ずしも子供に悪影響を与えるとも限らないのに、真っ向からその根をつんでしまおうというのはアレですね。
私は下品なギャグ漫画や暴力的な本、時にはエロスな本を読んで育ってきましたが(言っちゃったぜ☆)、一応現時点では警察に厄介になったことはありません。
また、警察に厄介になった方々がそのような作品に影響を受けて育ったかも知りません。
この条例が実際青少年の健全な育成を促すかどうかはともかく、因果関係もその影響も未だはっきりとは分かっていない段階で、これだけ強行的で広範にわたる規制を行うような条例を可決しようとするのは、これからの表現の自由等の個人の権利を侵すような流れへの足がかりのように思えてなりません。
児童ポルノが描かれた物を規制し、それを所持した人に罰則を与えることで守る「児童の権利」とは一体なんでしょうか。
実際に児童にそのような行為を行うかどうかは問題ではなく、ただ所持しているだけで児童の権利を侵害していると?
AVで児童が出演しているものに関しては規制の必要性を感じますが、空想の存在に対しても規制をするとはどういうことなんでしょうね…。
少年漫画で、主人公が児童であることには意味があります。
児童が戦い、児童が性行為をすることで表現しようとする作者の意図があります。
ただのエロ漫画でない場合、それが大人ではなく「児童」が行うということには、作品のテーマにもつながるような必然性を孕んでいる場合もあるのです。
オッサンは異世界に行っても勇者にはなりません。
それでも勇者になるのならば、「オッサン」という記号上、現在社会に生きる不満や諦めを異世界で回復し、前向きになるというストーリーが順当であります。
多くの漫画で描かれるキャラクターは「記号」でしかない、というのが私の考えです。
性別も、外見年齢も、その性格もすべて記号の組み合わせです。
オッサンという記号には諦めや停滞感といった要素などが含まれています。
男という記号なら、異性を顧みず冒険に浸ったり、あるいは異性のことしか考えないような要素を含み、女という記号なら、どんなストーリーでも恋愛という要素を欠くことできないようになっています(主人公ならね…脇役はその限りでない)。
そのストーリーや作者の主張に沿って、そういった色んな意味を持つ記号を組み合わせてキャラクターは出来ています。
記号に付加された要素は、社会的な通念やこれまでの漫画の歴史の中で追加されていったものです。
その記号が、現実のそれを反映しているかどうかはあまり問題ではないのです。
現実世界でツインテールの少女がツンデレとは限りません。(しかも多分関係性はない。
アルビノ少女が無口で天才でミステリアスとも限らないし。(てかいるのか?
漫画の少女を愛す時、我々は現実に存在する「少女」ではなく、「少女の記号」を愛しているのだと思います。
二次元と三次元は別という話を聞くけども、同じことですね、多分。
三次元の少女が二次元において記号化された物を愛しているのであって、リアルでウ○コしたり年をとったりするような要素は二次元の「少女」には含まれないこともあるのです。
我々が愛している二次元の少女は、必ずしも三次元の「少女」と同一のものではないことを理解して頂きたいものですなあ。
二次元の少女を愛でることで、どう三次元の「少女」の権利を奪えというんでしょうか!
いやーこの問題はこれからの漫画の発展に関わることだから動向が見逃せないですね。
アメコミは、数多くの規制によって日本に出遅れたという見方があります。
規制以前と規制後では、圧倒的に作品の種類が変わったという話。
アメコミが一様に勧善懲悪でマッチョな青年ヒーローしか出てこないかのような印象があるのは、子供の教育に悪い、といった名目で政府が多くの規制をかけたためでもあると聞いています。
そうして毒にもならないような棘を抜かれたアメコミは、80年代の頃にはすっかり子供向けで幼稚で、成長したら卒業するものという認識を得るようになっていたようです。
後は落ちるだけの日本、ただ漫画などのサブカルチャーのみで注目を集めるしかないというのに、規制をかけたおりこうさんな作品で世界から見てもらえると思ってるんでしょうか?
エロも、グロも、暴力も、おそらく人種の垣根を越えて通用する文化だと思うのですけどね。
んー長くなった。
もしかして最長ではなかろうか。
多分読んでる人はいないだろうけども、こういうのは自己満足なんだからそれでイーンダヨ。
しかしまあ一度は触れておきたかったのでドバーンと書くことにした。
署名活動とかはしないです。
いざそうなったら諦めます。
その時は自家発電するんで集え!同志たちよ!(笑
一緒にあのエロの星を目指そうではないか。
紙に児童ポルノな絵を描いたその後は、灰皿の上で火をつけて燃やすんだぜ。
ワーオ!機密事項みたい!
実際、所持してたら罰則なんだろ!
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